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岡山とい草

目を閉じて深呼吸したくなる、畳の空間。その歴史。

かつて、米のご飯とい草の畳ほど、日本人の生活に深く沁みついたものはありませんでした。

い草はインドを原産とし、中国(寧波市〜蘇州)〜沖縄、九州、中国地方を経て全国に普及し、古来より栽培されるようになりました。
徳川時代には備前表として取引されていましたが、いつしか早島表の名称が付けられ、早島は畳表の一大産地として名を轟かせました。

岡山とい草

古くは1800年前より続く、岡山のい草の歴史。
吉備国伝承によると、神功皇后、三韓征伐の帰途、庄(倉敷市)に立ち寄った際、物部の浦人がいぐさで織ったござを奉ったことが始まりとされています。(200年ごろ) 大和時代(300年ごろ)の王墓山古墳(倉敷市)からは、い草で織られた今の畳表にきわめて近いものが発掘されています。
さらに、奈良時代(700年ごろ)には備前国秦刀良(はたのとら)が畳造りの功により従五位を授けられる(続日本記770年頃)など、織物の技術としても高かったのが伺えます。

昔はい草は備前・備中・備後の特産と言っても良いくらい栽培が盛んでした。
今日では生産の大多数が中国に依存し、国内栽培も九州とその他一部となっています。

明治に入り、い草の栽培に飛躍的な発展をもたらしたのが「花莚」の発明によるものでした。
明治11年、都窪郡帯江(現在の倉敷市茶屋町)の磯崎眠亀がい草織物に注力し、錦莞莚を発明しました。これにより、い草の染色技術が確立され、付近には至ところに莚小屋が建てられ急激に花ゴザ産業が花開くことになります。

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