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倉敷と花ゴザ

和室を彩り、産業として爆発的に進化した「花ござ」

今からおよそ1800年前のこと。
神功皇后が三韓征伐の帰りに今の倉敷市二子にあった神社に立ち寄られた時、谷あいに生えていた美しい草を使って里の人々に莚を織らせたところ、とても気に入られたといいます。その美しい草こそ、現代の私たちの生活に馴染みの深い「い草」だったと伝えられています。当時、倉敷市の一帯は大小の島々が点在する海でした。高梁川などが運んでくる土砂で徐々に浅くなり、江戸時代に干拓が本格化して、現在のような広い農地が生まれます。

倉敷と花ゴザ

しかし、干拓して間もない農地は、塩分が多く含まれ、稲の栽培には不向き。そこで、「綿花」や「い草」など、塩分を含む土地でも育ち、土地の塩抜きもできる作物が広く栽培されました。
このことは、やがて繊維産業の町として栄えることとなる倉敷市の礎になっていきます。中でも、「い草」を加工した「畳表」は、早くから全国的に高い評価を受けることとなり、「畳縁」と併せて、そのブランド力は高まっていきました。さらに、明治維新を迎えると、「い草」の加工に、西洋の技術も導入。磯崎眠亀による「錦莞莚」の発明を皮切りに、相次ぐ技術革新と創意工夫の連続によって、倉敷市の「花ござ」は、世界に通用する貴重な輸出品となっていったのです。以来、「い草」の栽培とともに、「畳表」や「畳縁」、「花ござ」、「捺染花莚」など、「い草」の加工でも活気づきます。その後、昭和三十九年頃をピークに、栽培は減少していきましたが、産地に根付いた高度な加工技術は、今もこの地に伝わり続けています。

倉敷と花ゴザ

い草の栽培と畳表の出荷元として名を馳せた早島、 そして花ゴザの織込み技術の発達と製造拠点として栄えた倉敷市西阿知。
倉敷のい草と花ゴザの歴史は深く絡み合い全国でも稀に見る独自の進化を遂げています。

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